10月26日(火)午前 快晴

 6時を過ぎたという妻の声で目を覚ます。妻は「暖房が効いているので、布団を掛ければ暑いし、さりとて掛けないと寒いし、熟睡できなかった」と言っていた。私はと言えば、一旦寝てさえしまえば、簡単には目を覚まさないたちである。TVの天気予報は、今日も終日上天気であることを告げていた。
 朝食はレストランでバイキングであった。いつもの習慣で自分はパン、妻はご飯を取った。最後に成分無調整の地元の田野畑産牛乳を飲んだ。いかにもミルクという味わいだった。こんな牛乳を毎日飲んでいたら、街で売られている牛乳は水みたいに思えるかも知れない。

 出発は8時だった。前日と席を変えたが、成田の人たちは3人なので、最後尾の席でちょうど良いと言って変わらなかった。ホテルからは羅賀港の湾を隔てて岬を斜めに上がるシーサイドラインの道路が見える。間もなくこれを通って北山崎に向かう筈であった。
 この岬を過ぎて入り江の奥に回り込むと明戸という所でパターゴルフ場や運動場、キャンプ場などがある。外観の綺麗な店もあったが、客足が遠のいてしまい、閉じてしまっているとのことであった。バブル崩壊以降、長く続いている不況の影響もあるようだ。弁天岬を過ぎると道は台地の上に上がる。羅賀荘を出て20分、車はシーサイドラインを折れ、1kmほど海岸に向かって走り、北山崎駐車場に着いた。

 北山崎は、今回の陸中海岸コース中の最大の見せ場である。駐車場から展望台まで徒歩5分ほどであり、4軒ほど食堂を兼ねた土産物店があるが、8時半前という早朝のためか、観光客の姿は見かけない。駐車場にも観光バスはおろか、自家用車の姿も無かった。北山崎を含む、陸中海岸北部の太平洋に切って落ちる断崖は「海のアルプス」と形容されているとのことである。ほぼ平坦な台地は標高が約200m、この高さから一気に海に落ち込む断崖である。北山崎付近はところどころ断崖の途中に、50mから100mの高さの小さな岬が出ていて、それらの岬のいくつかには侵食による洞門が形成されていた。高さ50mにも及ぶ岩礁もある。惜しむらくは、真南の方向を見るため秋の日差しでは朝と言えど逆光であったことだ。台地上の展望台から、海に突き出した岬に向かう歩道があり、「片道15分ほどだが階段を上り下りするのが嫌でないのなら、是非行っていらっしゃい。私も何度か行ったけど、好いですよ。」と運転手さんが言う。私は駆けてでも行ってみたい気分であったが、妻は遠慮するとのこと。一人でも行ってこようと思っていたら、二人連れの仲間も行くと言う。
 ジグザグのコンクリートで造られた階段を下る途中、北側も見えた。間近に切れ落ちている断崖があり、青い海に岩礁が点在し、白く波が砕けている。これも見事だった。ただ北側はその岩壁から先は遥か太平洋が広がるだけで、連なる海岸線は見えなかった。岬に向かう道からは更に海岸に降りる階段もあった。海面近くから断崖を見上げたらなら、また別の迫力があったであろう。岬の展望台に行くと、台地上の展望台から7,80mほど下り、岩壁から150mほど離れることになる。運転手さんの言葉の意味が良くわかった。海に切れ落ちる断崖の面が見え、光線も半逆光に変わった。断崖の面の2/3位の高さからの眺めである。思わず声を上げたくなるなるような景観が眼前にあった。崖の途中に段が付いているようなところには、松の緑や紅葉しかけた雑木が張り付いている。断崖や岩礁に打ち寄せる波が白く砕けている。小さな岬を持つ断崖の襞が幾重にも重なり、2kmほど南の矢越岬まで続いている。その岬の先端にも洞門と太い蝋燭のようにそそり立っている岩礁が見えた。矢越岬越しにさらに断崖のシルエットがあったが、田野畑より南の鵜の巣断崖の方だろう。何と迫力があり、また美しさも併せ持つ景色であろうか。


 同行の二人に遅れて引き返したが、階段道の途中で追いついた。さすがに息が切れている様子だった。喉に渇きを感じ、飲んだ缶コーヒーが旨かった。

 8時50分頃、車は北山崎を後にし、シーサイドラインに戻った。この道は、国道に輪をかけて交通量が少ない。真夏以外、あまり人出がないのであろうか。自分の確認も兼ね、下の展望台に行けなかった仲間にデジタルカメラのモニタで撮ったばかりの写真を見せた。

 3kmほどほぼ平坦な道を北上し、またシーサイドラインを外れて、黒崎展望台の駐車場に停まった。10mほど下ったところが展望台であった。またしても素晴らしい眺めが広がっていた。断崖の上の展望台は高度感十分である。真下は松の緑で崖そのものは見えないが、梢の先は200m下の海面であった。直ぐ近くにまるで岩の板のような小さな岬が迫り出し、先端に松をいただく白い岩の小島がくっついている。岬の手前側は切り立った崖の根元に狭い砂浜があり、防波堤と桟橋、そして赤い屋根の建物があった。ネダリ浜と地図に示されていた。岬の先の湾の奥には太田名部の漁港の防波堤が見え、さらにいくつかの岬が緩やかな曲線で折り重なり、さらに遠く久慈市の三崎が太平洋に長く伸びていた。それから右は、もう何も無い太平洋の大海原である。この地が三陸リアス海岸の北端に当たるとのことであった。


 黒崎からのシーサイドラインは、つづら折りの道で、一気に海岸まで下る。15分ほど走ると太田名部の漁港に着いた。新鮮な魚が店先に並んでいる。運転手さんが「この先の店なら発送もしてくれますよ。」と言う。交叉点を折れた店の脇に車を止めた。さまざまな魚介類が並んでいた。まだ活きている細長い魚もいた。70cmほどのオスの鮭が一本1、000円であった。今朝陸揚げされたものという。メスはイクラを持っているのでずっと高価とのこと。信州の山育ちの私には、イカとかホタテ貝位は分かっても、それぞれの名前はさっぱりである。ホヤも人に聞いてそれと知った。私達は買わなかったが、二組のメンバーは随分注文を出していた。店先のスチロールの箱に無操作に白い肉のビラビラした物があった。店のおかみさんがちょっと一部をちぎって醤油をたらし、刺身で味見させてくれると言ったその白い肉は、マンボウということであった。なかなか美味だった。前夜の食事には刺身では無かったが、マンボウもホヤも 入っていた筈であった。

 これが陸中海岸の最後であった。9時35分に太田名部の店を出ると、後は昼食を取る予定の三沢市に向けてひたすら走り続けることになる。間もなくの譜代でシーサイドラインは終点で国道45号線に戻る。譜代から八戸まで87kmさらに、八戸から三沢まで15kmほどである。譜代付近の道端の農家の畑には食用菊が多く栽培されており、黄色の花が満開で綺麗だった。道は山に入ったり、海岸に近寄ったりしながら走り、やがて久慈市のバイパスに入った。運転手さんが久慈琥珀の博物館などの話しを聞かせてくれた。市内を通過し山に入ると、単線の線路が近寄って来た。三陸鉄道は久慈までで、ここは八戸から来ているJR八戸線であった。その線路は直ぐに国道からは離れて行った。

 昨夜眠れなかったという妻は眠りに落ちていた。車内は暖房は入れていないが、快晴のため温室のようにポカポカしていた。自分も眠くなって来ていた。
 運転手さんの「ここ種市町が岩手県の最北端です。」という声が聞こえた。国道は海岸線に並行してはいるが、少し内陸でほとんど海は見えない。県境を越えて青森県階上町に入り「はしかみ道の駅」という所で一旦停止し、7分ほどトイレ休憩をした。物産館があったが行くメンバーは無かった。国道45号線は八戸の中心部を横断した後、途中で三沢市に向かう百石道路という有料道路を分け隣の百石町で左に折れ、十和田市で国道4号線に接続して終っている。車は有料道路は使わず、八戸市の北端で国道45号線から離れ、下田町で奥入瀬川を渡った。「この川が十和田湖から流れてくる奥入瀬川です。本当は、直接十和田市に向かうのが近いのですが、昼食場所が三沢市の古牧温泉なので、ちょっと大回りになります。」と運転手さんが言っていた。県道8号線を三沢市に向かった。

 古牧温泉は、三沢駅にごく近い。東北本線の線路に沿って塀が続いていたが、「あの中が古牧温泉です。」とのこと。駅の構内の見える踏切を渡ると直ぐ、車は左に折れて古牧温泉に入り、ボウリング場のピンのある建物の脇を通り抜け南大門という寺院様式の門をくぐって正面の建物の玄関に滑り込んだ。12時10分頃であった。



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